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人生朝露

人生朝露

ハイデガーと荘子 その2。

悪かったわね!
今回も荘子であります。

マルティン・ハイデガー。
ハイデガーの「存在と時間」というのは、荘子のパクリである。・・これに気づいて、かれこれ半年近く経つわけですが、その根拠を。(今のところ、「荘子とハイデガー」については、ネット上にほとんど載せられていない話題なので、パクってもすぐバレますよ。)

参照:荘子と進化論 その16。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200909280000/

まず、前提として、私は『存在と時間』における「存在」なるものは、荘子の「道(Tao)」に他ならないということを確信しています。

『天地有大美而不言。四時有明法而不議。萬物有成理而不説。聖人者、原天地之美而達萬物之理。是故至人無爲、大聖不作。觀於天地之謂也。今彼神明至精、與彼百化、物已死生方圓。莫知其根也。篇然而萬物、自古以固存。六合爲巨、未離其内。秋豪爲小、待之成體。天下莫不沈浮、終身不故。陰陽四時、運行各得其序。昏然若亡而存、油然不形而神。萬物畜而不知。此之謂本根。可以觀於天矣。』(「荘子」外篇 知北遊)

→天地は万物を育むという素晴らしい働き(美)がありながら、何も言わない。四季ははっきりとした法則がありながら、それぞれが語り合わない。万物も存在する理由がありながら、何も説明はしない。聖人と言われる人は、天地の美に基づいて万物の理に達する。だからこそ至人というのは、自然に人の作為を働かせず、聖人ともなれば、自然と一体となる。 今、かの神明なる「道」は、万物の変化を彼に与え、その結果、万物が百化して、生まれたり、死んだり、丸になったり四角になったりしている。何者がそうさせているかは分からない。こうして、あまねく万物は生成し、古来より存在している。宇宙は巨大であっても「道」の法則のうちにあり、秋の日の獣の毛が細くても、それもまた「道」の法則によってそうなっている。天下は浮き沈みをしながらも形を変え続け、四季は必ず同じ順序で巡り来る。これらの存在は真っ暗で存在しないようでいて、はっきりと存在していて、形こそ見えないものの、不思議な働きを悠然となしている。万物はその存在に養われていながら、その存在を知らない。これを「本根」と言う。このことが分かった上で、天地を観て「道」を悟るのだ。

・・・これは、湯川秀樹さんが大阪大学の理学部に揮毫している文章ですが、荘子の「道(Tao)」に対する姿勢を表しています。定義できないけれども、ものをそのものたらしめる存在、それが道です。ちなみに、荘子のこの段落に登場する「本根」というやつはハイデガーのいう「本来性」にちかいかと思われます。

参照:荘子と進化論 その4・5。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200904250000/

今回は、
ハイデガー 木田元編。
「知の攻略 思想読本3 ハイデガー 木田元編」という本から、ハイデガーの作った新語と荘子の関係について見ていこうかと思います(以下の用語の解説はこの本によります)。

●ハイデガー
Heidegger!
「テンポラリテート」:存在了解の可能性の条件として機能する限りでの時間性のこと。『存在と時間』という表題の「時間」というのが、これに当たる。われわれは、普段表立たずに存在を時間の地平から了解しているが、時間性に属するこうした地平にまず目を向けて捉えられた時間性がテンポラリテートと呼ばれる。

○荘子
Zhuangzi
『吾生也有涯、而知也無涯。以有涯隨無涯、殆已。已而為知者、殆而已矣。』(「荘子」養生主第三)
→人間の一生には限りがるが、我々の知識欲は無限にある。限りある人生で得られた知覚によって、無限の知識欲を満たそうとするのは自らを危うくさせるだけだ。さらにその知の欲望に身を委ねることは、いよいよ自らを危うくさせるのみだ。


●ハイデガー
Heidegger!
「故郷喪失」:人間が「存在への近さ」を失っているという事態を指す後期ハイデガーの用語。

○荘子
Zhuangzi
『予惡乎知説生之非惑邪。予惡乎知惡死之非弱喪而不知歸者邪。』(「荘子」斉物論第二) 
→生きることだけを喜びとするようなことを、私は人の迷いではないと言うことができない。逆に、人間が死を憎んでばかりいるのは、旅人が故郷に帰ることを忘れるということに似てはいまいか?


●ハイデガー
Heidegger!
「放下」:後期ハイデガーの用語。技術の支配のただなかで、人間がとるべき態度を指す。

○荘子
Zhuangzi

『予嘗為女妄言之、女亦以妄聴之,奚。旁日月、挾宇宙、為其吻合、置其滑民、以隸相尊。衆人役役、聖人愚鈍、參萬歳而一成純。萬物盡然、而以是相蘊。』(「荘子」斉物論第二)
→試しに妄言を言ってみようか、そのつもりであなたも聴いてくれ。どうだ?聖人という人は、月日と並び立ち、宇宙を脇に抱えて、万物と一体させ、すべてを混沌のままにさせておき、貧しい者を尊び、価値による差別をなくすものだ。俗人たちは、あくせくと動き回るが、聖人は愚鈍で、一切を忘れているように見える。万年の長き時の変化のうちに身を任せ、万物のあるがままを受け入れる。温かい掌のうちに、包みこむのだ。

もしくは、

「吾聞之吾師、『有機械者必有機事、有機事者必有機心。機心存於胸中、則純白不備、純白不備、則神生不定。神生不定者、道之所不載也。』吾非不知、羞而不為也。」(『荘子』天地篇 第十二)
→「私は先生に言われたことがある。『機械がある者には、機械のための仕事ができてしまう。機械のための仕事ができると、機械の働きに捕らわれる心ができてしまう。機械の働きに捕らわれる心ができると、純白の心が失われ、純白の心が失われると、心は安らぎを失ってしまう。心が安定しなくなると、人の道を踏み外してしまう。』私は機械の便利さを知らないのではない。機械に頼って生きようとすることが恥ずかしくて、そうしないだけだ。」

あたりかと。
ただし、後者の「機心」は、むしろハイデガーのいう「人間性喪失」に近いと思われます。

参照:当ブログ 荘子と進化論 その13。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/diary/200909080000/


●ハイデガー
Heidegger!
「存在忘却」:人間がある特定の存在概念を無批判に継承し、存在への問いを適切な仕方で立ててこなかった事態のこと。

○荘子
Zhuangzi
『天下大乱、賢聖不明、道徳不一、天下多得一察焉以自好。譬如耳目鼻口、皆有所明、不能相通。猶百家衆技也、皆有所長、時有所用。雖然、不該不遍、一曲之士也。判天地之美、析萬物之理、察古人之全、寡能備於天地之美、稱神明之容。是故内聖外王之道、闇而不明、鬱而不発、天下之人各為其所欲焉以自為方。悲夫!百家往而不反、必不合矣。後世之學者、不幸不見天地之純、古人之大體、道術將為天下裂。』(「荘子」天下篇第三十三)

→そのうち、天下は大いに乱れ、偉大なる聖人や賢人は現れず、道徳の一致がみられず、(今の学者は)限られた視野で、好き勝手なことを振舞うようになった。これは、目や口や耳や鼻に、それぞれの働きを兼ね合わせることができないことに似ている。多くの匠の技がそれぞれの長所を持っていても、他を兼ねることができないのと同じだ。一つのことに限定された世界に生きているだけだ。だから、かれらは天地の美に優劣をつけ、万物の理を分析と称して切り取って、かつての人びとが大切にしていた一体の徳をばらばらにしているのだ。道にしたがい、天地の美を備える者は少ない。このため、内に聖人の徳、外に王道の道を志す者が現れず、闇の中に光が見出せなくなった。天下の人々は己の欲にとらわれただけの道を自分の道と称している。悲しむべきことではないか!!諸子百家の才は、再び帰り着くべき一つの道に戻れず、不幸にして、後世の学者は、天地のあるべき純粋な姿、古の素晴らしい生き方を知ることができない。今の学者たちのおかげで、天下の道は分断の危機にさらされているのだ。

・・・ほんと、がっくりですよ。なんでこんな素晴らしい文章をパクるかね?ま、ナチ公の片棒担ぐような輩のやりそうなことだと思いますよ。そりゃ、荘子なんて、仕官先を蹴って一生貧乏な漆園の管理人だったけどね、でもね、聖徳太子の時代から読み継がれてきた荘子をパクられたとあってはね、吉田兼好や、松尾芭蕉が許しても、私は許しませんよ。

参照:Wikipedia マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%87%E3%83%83%E3%82%AC%E3%83%BC

中国哲学書電子化計画 荘子
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=2712&if=gb

残った単語に関しては、もうちょっと分かりやすい本があったので、そちらで。

今日はこの辺で。


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